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 2002年12月14日(土)午前7時半、東光園アパートの中島氏より携帯電話宛にメール。

「二号館焼失
   火事が出てしまいました。 中島」

  アパートに住む何人かの友人と知人の身の安全を、ギャラリーニエプスの代表で、
  すでに現場に着いていた写真家の中藤毅彦氏に携帯電話で確認。
  迷うこと無く、カメラは持たずに軍手一足だけを携帯して現場に向かう。

  火災現場に10時すぎに到着するが、消防署、警察の警備により建物には近づけず。
  メールで知らせてくれた中島氏と合流、火災の経過を聞く。
  2号館をはじめ 、住民の方の多くは中目黒の東一町会事務所に避難されていた。


  
  11時頃に中島氏が『隣の館の住民で、部屋の安全を確認したい』と警官に説明。
  立ち入り禁止区域内に入れてもらう。
  建物の中島氏の部屋より目前の消火活動を見れば、軍手などが役に立つような規模の
  火災ではないことを突きつけられる。

  10人程の消防士達はテレビ、カラオケ装置、本、といったものを2階焼跡の残骸から
  中庭に無遠慮に放り投げている。
  焼けてしまった自分の部屋の様子を見にきたTさん(東光園全体の実務上の管理者)が、
  『再燃を防ぐための処置ですから。むやみに落としている訳じゃないですよ』

と消防士から説明を受けているのが聞こえる。

  帰り際、ギャラリーを焼失した中藤氏と会う。
  『老人も多かったのに、死者が出なかったことだけが救いです』
  と説明されるが、かけられる言葉も見つからずに別れる。

   1階北側の部屋より出火し、トタンの天井沿いに
  3階、2階、1階の順に燃え拡がった。
  木造のため火のまわりが速く、冬場ということで廊下においてあった石油などに
  次々と引火した模様、、、。

  その後年内いっぱいは、時間を作っては焼跡の後片付けに通っていました。
  そこでは連日若い住民を中心に、僕と同じ様に手伝いに参加したボランティアの仲間達が
  力を出しあって残骸の山を整理していました。ギャラリーニエプスの写真関係者の参加が
  多かったのは、主催の中藤氏の人柄によるところ、だと思われます。
 中島氏など他の館の住民が、天井の落ちそうな部屋の老人に代わって荷物の運び出しをする場面もあり、
  「もしも、ぼやで済んでいたら、良いコミュニティーになっていたかもしれない」と
  夢想しながら、働く日々でした。
  
  そのうち住民からは焼跡の撮影を頼まれ、これまでに撮ってきたアパートの写真を、
  お渡しする約束をしました。
  
  
  結局、僕がやっとシャッターが押せたのは焼跡に通って6日目でした。
  火災により写真ギャラリ−を失った中藤氏も、普段は後片付けに専念し、アパートに
  カメラを向けることはまったくありませんでした。
  
  そして部材保存の切り出しをしている時だけ、使い捨てカメラでスナップをしたそうです。

  なぜ、きちんとしたカメラでは無く、あえてラフな性能のカメラで撮影したのか。
  また、なぜそんなカメラでなければ撮影が出来なかったのか。
  同じく写真に携わる者として、僕にはなんとなく彼の痛みが判るような気がしています。

一方では、そんな我々の気持ちなどお構いなしに、報道関係者が

なんのためらいもなく、働いているその横でシャッターを切っていく姿がありました。

焼跡でファッション撮影をしたい、という雑誌の申し出には

とうてい同じ表現に携わる者とは思えない非情さと、絵作り重視の計算を感じて

余計に寒さがこたえました。



東光園アパートに関しては、バブル期にいくつかあった建て替え話も空転し、
  当分の間は問題無く存在するだろう、と言われていました。

  特にこの4年ほどは若い住民によるリフォームが進み、

現代風にアレンジされた住みこなしがなされるようになり、

号館の垣根を超えた交流など、新たなコミュニティーも生まれはじめていました。


  一方で、古くからの居住者(主に年輩の方)との住環境に対する意識の違い、
  若者のマナーの悪さなどが問題になってもいました。年輩者からは
  「もう若い奴は入居させるな」という声が聞かれていたことも事実ではあります。

  それでも住民の退去後、テナントショップばかりが建ち並んでしまったり、
  建物の老朽化とともに住民の高齢化も進み、『過疎の村』のようになりかけていた

一部の同潤会アパートに比べれば、まだ集合住宅としての機能を保ち、

生まれ変われる可能性を持っていたはずだ、と思います。


  地元に生まれ育った僕にとって、

代官山同潤会アパートと並ぶ『近所の憧れのアパート』であり、
  いつかは実際に住んでみたい場所でした。
  同潤会アパートをはじめ、昭和初期に建てられた集合住宅とそのコミュニティーを
  自分自身のテーマとして撮り進めるうえでの原点となる存在でもありました。

ここに出会っていなければ、いまこうして写真など続けてはいなかったことを思うと

このアパートを失っていくことが残念でなりません。


      


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